未来へ響く、100年の鼓動
1917年創業。復興と都市づくりに邁進した100余年。
積み上げた歴史を、これからの社会へと響かせます。
創業期
19171959
小さな町で建築業を営む
苦難を越えて礎を築く
1917年 (大正6)
10月、髙松留吉が「髙松組」を創業
(大阪市 旧東淀川区十三西之町)
HISTORY 01
まだ牛や馬が道ゆく時代
創業当時の大阪十三は、まだまだ建物も少なく、のどかな田園風景が広がっていました。建物といってもほとんどが木造で、RC造の建物が出てきたのは阪急百貨店(昭和4)、北野高校(昭和6)くらいのもの。昭和15年頃でも、まだ街中を自動車と牛車・馬車が入り混じって通っていたような時代でした。
創業者髙松留吉
HISTORY 02
大正の「建設」事情
大正時代の「建設」は、「土建(土木建築)華」と呼ばれていて土木が中心。工事のレベルも今とは雲泥の差でした。たとえば、当社が施工した北野高校の運動場の造成工事。今ならトラックで簡単に土を運搬できますが、当時は牛車で千里の山から山土を運搬していました。しかも、牛一頭につき人ひとりがついて歩く地道な作業の繰り返しです。まさに「牛歩の歩みも千里」を地でいくような話です。
1931年 (昭和6)
建築資材問屋「土豊商店」を併設
1940年 (昭和15)
前本社所在地(淀川区田川)へ移転
1949年 (昭和24)
「大和木材」を設立し、製材業も開始
HISTORY 03
時代の波に乗り始めた矢先
昭和20年代後半、戦争で受けた癌手や戦後の混乱期を乗り越えた髙松組は、映画館や商店、工場などの建設を手がけ、ようやく事業も軌道に乗り始めます。日本の建設業も、ブルドーザーやパワーショベルなどの機械化が進み、本格的に近代化していきました。経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのもこの頃のこと。髙松組としても、「さぁ、これからだ!」というときに、創業者・髙松留吉の急逝という苦難が訪れます。
始動期
19651994
事業と組織を着実に拡大
主要都市への進出を
果たしていく
1965年 (昭和40)
「株式会社髙松組」に法人改組(資本金300万円)
1972年 (昭和47)
住宅金融公庫融資物件第一号マンション着工
HISTORY 04
企画提案営業の原点
この頃、 住宅金融公庫の賃貸住宅建設融資は、煩雑すぎる申込手続を理由に、 多くの人が断念 している状態でした。 他の建設会社も諦めて、金利の高い銀行融資を勧めているなか、この状況を 何とかしたいと思った当時の社員は、手続方法を独学で勉強。 お客様の手続を代行し、 将来の収支を含めた具体的な事業 計画を提案することで、 お客様に大変喜ばれました。 これが、 ただ建てるだけではなく、 お客様の希望を叶える事業提案から 行う「コンサルティング営業」の始まりであり、賃貸マンションを 柱とした、土地を有効活用する企画提案営業の始まりでも ありました。 まさに、 当社の原点ともいえる出来事です。
住宅金融公庫融資物件第一号マンション
1976年 (昭和51)
設計・施工一貫体制の基礎を築いた「グリーンパークハイツ」竣工
HISTORY 05
キーワードは「直接責任施工」
施工するだけ、建てるだけが普通だった時代に、当社は何か問題が起こった際に責任を分散させないよう、設計・施工を一貫して行うようになります。それが「直接責任施工」です。責任の問題だけではなく、「お客様の要望や夢をカタチにするためには、設計から自社で取り組み、最善のプランをつくりあげる必要がある」というモノづくりへの妥協なき姿勢も、設計・施工を一貫して行うきっかけのひとつでした。これらは、当社で建築していただいたものは、責任を持ってずっと守っていくのだという、お客様への宣言でもありました。
施工当時
3度の大規模改修を終えた現在
「株式会社日本内装」設立(現 髙松建設株式会社)
HISTORY 06
すべては技術研鑽のため
1969年頃から、ビルや工場の建築といった当時としては大型のプロジェクトも動きはじめ、1970年代は、賃貸マンションを手がける一方で、官公庁などの仕事にも力を入れていました。そうやって、さまざまなジャンルの建物を手がけることで、建築施工技術に磨きをかけていきました。さらに、当時技術No.1といわれていたゼネコンの下請けに自ら入ることで、その技術力を貪欲に学んだりもしていました。各々の現場から帰社した若手社員たちが、すぐにまた他の現場の応援に向かう。作業着とパジャマさえあれば事足りる。それほど社員全員が、がむしゃらに働いていた時期でした。こういった研鑽の日々が、現在の髙松建設の基礎をつくり上げたのです。
1983年 (昭和58)
東京支店(現 東京本店)を開設
HISTORY 07
いよいよ東京へ進出
関西で磨き上げた企画提案型のビジネスモデルは、関東でも通用するのか。東京支店の開設は、大きな挑戦でした。関東での実績は、もちろんゼロ。ただ、お客様の悩みを解決し、夢をカタチにするのに関西も関東も違いはないはず。専務以下4名だけでスタートし、必死の営業活動が続きます。やがて少しずつ結果がついてくるようになり、人員も増加していきました。この東京支店の成功により、当社は全国展開企業への第一歩を踏み出したのでした。
1986年 (昭和61)
横浜支店開設
1988年 (昭和63)
埼玉支店開設
1990年 (平成2)
「髙松建設株式会社」に社名変更
決意を新たにして次のステージへ進むための社名変更
1991年 (平成3)
名古屋支店開設
企業理念制定
1992年 (平成4)
千葉支店開設
1993年 (平成5)
大阪に「やまと建設(現髙松テクノサービス)」を設立
新社章・ロゴマーク制定

新社章・ロゴマーク
「知識」と「知恵」のすべてを提供し、「Consultant」と「Construct」の会社であることを、「C」が内包された2つの「T」で表現
1994年 (平成6)
大阪に「日本建商(現髙松エステート)」を設立
HISTORY 08
お客様のために新会社を設立
建物を建てた後の価値まで見据える発想がまだ一般的ではなかった時代に、 設計・施工に一貫して責任を持つスタイルだった髙松建設は、建物の品質だけにとどまらず、建てた後のメンテナンスや 入居付け・建物管理にも責任を持とうと考えます。「やまと建設」と「日本建商」 は、そうしたお客様への責任感から設立された会社なのです。建物としても、事業としてもアフターケアを徹底し、建てた後もお客様のよりよいパートナーとして共に歩み始めました。
発展期
19952014
時代の潮流を捉え挑む
M&Aで成長を押し上げる
1995年 (平成7)
神戸支店開設
HISTORY 09
阪神・淡路大震災での被害ゼロ
1995年1月17日5時46分、近畿一帯は震度7という大地震に襲われます。約30分後には社長が出社し、すぐに災害対策本部を設置。単車や自転車を使って、お客様の安否やお困りごとがないかの確認作業に奔走しました。「今、自分達になにができるのか」を考え、水や食料などの救援物資の提供、仮設住宅や仮設風呂の設置、公共浴場や病院の仮補強などに社員一丸となって取り組み、髙松建設の行動力が思わぬ形で役立つことになりました。 阪神間で髙松建設が施工した建物は108棟。当時から15%の余裕を持たせて構造設計を行っていたため、108棟中107棟が被害ゼロ。残る1棟も外階段の一部が損傷しただけで構造的には問題なく、簡単な修復で安全評価となりました。周辺のRC建築が倒壊・損壊する中、図らずも髙松建設の安全性が立証されることになり、これを境に建築基準法の1.15倍の構造設計は、髙松建設の標準となりました。
住宅金融公庫融資物件第一号マンション
1996年 (平成8)
本社ビル完成
本社・大阪本店を現住所(淀川区新北野)に移転
髙松建設 本社ビル(淀川区新北野)
1997年 (平成9)
東京に「やまと建設 (現 髙松テクノサービス)」を設立
大阪証券取引所市場第二部上場
1999年 (平成11)
京都支店開設
大阪本店ISO9001認証取得
東京本店を前所在地(中央区銀座7-12-7)に移転
2000年 (平成12)
東京証券取引所市場第二部 上場
本社・大阪本店ISO14001認証取得
「日本オーナーズクレジット株式会社」設立
「株式会社日本建商(東京)」設立
HISTORY 10
初のM&Aを敢行
2000年、建設業界では上手くいかないといわれていたM&Aを敢行。大型工事・海洋関連事業の小松建設工業と小松舗道のグループ化は、それぞれの強みを補完し活用することで、事業の拡大と収益性の向上を目指すという前向きな試みでした。このM&Aを機に、当社は連結売上1000億円を担う企業集団へと成長。2002年には、民事再生法を申請していた青木建設もグループ化し、さらに規模を拡大していきました。まさに、バブル崩壊後、建設投資の急減による競争激化で収益性が著しく悪化していた建設業界において、確固たる基盤を築く再成長へのターニングポイントになったといえます。
2002年 (平成14)
GWA (Green Wood Alliance)発足
GWAシンボルマーク
2004年 (平成16)
株式会社住之江工芸がグループに参画
2005年 (平成17)
東京・大阪証券取引所市場第一部 上場
「JPホーム株式会社」設立
資本金50億円に増資
2006年 (平成18)
株式会社金剛組がグループに参画
HISTORY 11
「金剛組を潰したらあかん」 1400年への敬意
2005年の夏頃から、金剛組の救済話が浮上。当時、髙松建設の会長だった髙松孝育は金剛組の経営危機に関する話を耳にし、「金剛組を潰したら大阪の恥や。古いものは一度なくしてしまうと二度と元に戻すことはできない」と支援に乗り出しました。そして2006年。金剛組は髙松コンストラクショングループの一員として再出発を果たすことに。1400年の間に脈々と受け継がれた金剛組の志や技術は、社寺建築を通じて日本の伝統文化に貢献するだけでなく、各グループ会社のモチベーションアップにもつながっています。
「大和ロック株式会社」設立
2007年 (平成19)
「株式会社GWA総合サービス」設立
株式会社中村社寺がグループに参画
2008年 (平成20)
持株会社制移行に伴い、髙松建設株式会社は
(持株会社)株式会社髙松コンストラクショングループと
(事業会社)髙松建設株式会社に会社分割
2012年 (平成24)
髙松コンストラクショングループビル開所
東京本店(港区芝4-8-2)移転
TCGビル(港区芝)
2014年 (平成26)
グループの共有資産研究所として、TCG技術研究所の共有利用をスタート
HISTORY 12
最高水準の技術研究所
2014年4月より、グループの共有資産研究所として、共同利用をスタートした「TCG技術研究所(茨城県つくば市)」。同等クラスのゼネコンの研究所としては最高水準を誇ります。もともとは、青木あすなろ建設が所有する技術研究所でしたが、グループ全体で活用する方針へと転換することで、さまざまな得意分野を持つ各グループ会社の人的資源やノウハウが集結する場所に。社会インフラの老朽化対策や長寿命化対策・防災・環境技術の開発などに力をいれた研究開発を行うなど、日々、建設の明日を見据えています。
TCG技術研究所
大型実験棟
躍進期
2017現在
グループの総合力を集結し
全国へと拠点を広げ次代を創る
2017年 (平成29)
やまと建設株式会社が「髙松テクノサービス株式会社」に、
株式会社日本建商が「髙松エステート株式会社」に社名変更
2019年 (平成31)
株式会社タツミプランニングがグループに参画
福岡支店開設
2021年 (令和3)
大昭工業株式会社がグループに参画
2022年 (令和4)
髙松エステート株式会社(大阪)と
髙松エステート株式会社(東京)が合併
2023年 (令和5)
髙松テクノサービス株式会社(大阪)と
髙松テクノサービス株式会社(東京)が合併
髙松コンストラクショングループ 東京本社ビル竣工
札幌営業所・広島営業所開設
髙松コンストラクショングループ東京本社ビル
2025年 (令和7)
高松営業所開設
仙台営業所開設
2026年 (令和8)
「TAKAMATSU PHILIPPINE Corporation」設立






